昔の私は、ただ雪かきをするだけで熱を出して寝込んでいた、ということを前回の記事で書きました。
それは、私が難病を患い、著しく免疫力が低下していたため、というのも要因の一つです。
■難病、発症
私には年子の二人の息子がいますが、子ども達がそれぞれ、幼稚園や保育園に行き始めた頃、私は、自分のカラダの異変に気づきました。
ネットで症状を入力し、検索したところ、「もしかして、○○という難病なのかもしれない」という疑いが出てきました。
近所のクリニックを受診すると、症状や血液検査の結果からしても、難病であることに間違いないという診断でした。
東京の有名な大学病院から専門医が定期的に診察に訪れている、別のクリニックを紹介され、そこへの通院が始まりました。
しかし、治療法はなく、完治もなく、少しでも症状を和らげるために対処療法をするだけで、副作用があるとわかっている薬を、一生、飲み続けなければいけない、ということでした。
「『難病』というのは、お医者さんにも治せない難しい病気だから『難病』というんだ」と、斎藤一人さんがおっしゃっていますが、正しく、その通りでした。
■闘病中
確かに、症状は和らいだような気はするものの、薬の副作用で、顔はパンパンに腫れ、いつも身体がだるく、気持ちは沈むばかりで、何もやる気がしない、そんな日々でした。
子ども達が幼稚園や保育園へ行き始めていたおかげで、家でゆっくりすることが出来たのは不幸中の幸い、と思っていました。
通常、共働きでなければ、保育園への入園は許可されませんが、次男には発達障害があり、児童相談所の指示で、特別に入園を許可されていました。
同居の義母は、嫁いだ義妹の出産や引越しなどの手伝いで、長期間家を留守にしていました。
私は家で、ほとんど横になって過ごし、保育園や幼稚園バスの送迎と最低限の家事をするのみ。
ただ、やろうと思えば、出来ないことはなく、園行事など、自分が参加したいものには参加して、帰って来ては「疲れた~」と言って、横になっていました。
夫は、普段通りでした。私が難病だからといって、何も変わりません(と私は感じていました)。
それは、今思うと、当然のことで、とても有難いことでしたが、当時の私には、信じられないことでした。
「妻が難病なのに、普段通りなんて!
もっと優しくしてよ。できることは全部あなたがやってよ。」
これが私の心の声でした。(お恥ずかしい・・・)
私は、離婚を申し出ましたが、受け入れてもらえませんでした。
(この時のこと、今ではとても感謝しています!)
心とカラダは繋がっていると言いますが、ネガティブな感情は積もり積もっていき、症状も悪化していきました。
ずっと微熱が続き、身体中、特に、頭がとても痛くてたまらず、臨時で専門医を受診して、頭痛薬を処方してもらいましたが、飲むと痛みがさらに酷くなり、別な薬にしてもらおうと、再度受診すると、別な医師で、自分の一存では変えられない・・・とかなんとか。
■決意
あまりの苦しさに、朦朧とする中、
「もう、こんなの絶対、嫌っ!!」
「絶対、治ってやるっ!!」
と、私は、この時、心底、決意しました。
今、考えると、医師からはもちろん、ネット検索でもなんでも、「完治はない」とか「一生薬を飲み続けるしかない」と見聞きして、『治らないものだ』と、私ははなから諦めていました。
『治す』という発想、思考がありませんでした。
もちろん、治す方法なんて、当時の私にはわかるはずもなく、その時は、ただ、
「『治す』と決めただけ」でした。
それから私は、頭痛薬はもちろん、医師が処方した薬を飲むのをやめることにしました。
小心者なので、医師に相談しましたが、「自己責任で。悪化したら必ずすぐに来てくださいね!」と念を押されました。当然です。
症状はしばらく続き、私は身体のあちこちの痛みに、ひたすら耐えていました。
あまりの痛みに、「いっそのこと、殺して楽にしてくれ」なんて考えも浮かんだ程でした。
夫が身体の痛む所をさすってくれました。私は、涙がボロボロこぼれました。
離婚を申し出るような、身勝手な私なのに・・・。
当時、私にはやってみたいことがありました。
アメリカンフラワーというディップアートの体験です。
まだ、症状がそれほど酷くなかった時に、私は、その体験レッスンに申し込んでいました。
『透明感』が大好きな私は、そのお花の美しさに惹かれ、一度、是非、体験してみたいと思っていたのです。
その体験レッスンの日が、日に日に迫っていました。
でも、身体中の痛みに耐え、起き上がることも困難な状況の私には、とても行けそうにありませんでした。
体験レッスンの日の朝、目が覚めると、前日まで、あれほど辛かった、身体中の痛みが、全て消え去っていました。
あまりの辛さに、私はお風呂さえ入っていませんでしたが、私は、体験レッスンに参加することが出来ました。
■完治
その後、あれから、14年の月日が過ぎましたが、私に、難病の症状は出ていません。
「完治はない」と聞きましたが、「完治」と言っていいのではないか、と私は思っています。
振り返ってみると、やはり、私には病気のメリットがありました。
両親共働きだったのですが、私が小学生の頃、病気をした時に、優しく介抱され、嬉しかった記憶があります。
「病気になると、優しくしてもらえる」
そんなメリットが私の中にあったんですね。
でも、あの時の夫は、優しくありませんでした。
いえ、本当はとても優しい人なのですが、当時の私の「優しい」の定義が、「いつもそばにいて、何でも世話をやいてくれること」だったので、優しくない、愛されてないと感じてしまったんです。
しかし、冷静に考えればわかることですが、一家の働き手である夫が、もしも、いつもそばにいて、世話をやいてくれていたら・・・、たちまち、収入はなくなり、一家が途方にくれてしまいます。
そして、もしも、甘やかされていたら、私は、どんどん図に乗っていたことでしょう。
夫のおかげで、「子ども心」の私が望んだメリットが得られなかったからこそ、私は病気になっても、苦しいばかりで、何もいいことなんてない、「こんなのは、もう、絶対嫌だ」と心底思うことができて、そして、決意につながることができたのです。
夫が冷静でいてくれて、本当に良かった。離婚もせずにすみ、今は、感謝しかありません。
子どもを育てていれば、わかりますね。
甘やかすことは、決して、子どもにとっていいことではありません。
子どもの成長を願って、あえて、突き放すことが必要なことは多々あります。
大人の私でも、それは、同じこと。いえ、大人だからこそ、余計に。
ところで、前回の記事にも書いたように、私が病気をつくりだしていた根本原因は、小学生ではなく、もっと前の6歳以下に作られていて、フラクタル心理カウンセリングで、その修正を行ったのは、今から6年前のことです。
だから、上記の振り返りに書いたような、夫のことや、病気のメリットのことを知ったのは、難病が治った時ではなく、ずっと後のこと。
14年前、私は、奇跡的に難病が治った!・・・と、ただ、そう思っただけでした。
なので、その後も私は、難病こそならなかったものの、小さな病気は作り続けていました。
■現実化のしくみ
たとえ、しくみは知らなくても、現実化のしくみは、誰にでも、常に、起こり続けています。
深層意識(潜在意識)は、寝ている間も休むことはありません。
私が難病が治った時のことを、思考(意識)の面から振り返ってみると、
私は、最初、難病は治らないものと思い込んでいて、表層意識に、『治す』という思考がほどんどなかったんですね。だから、治るものも治らない。
それがある日、表層意識で、『治す』と心底決意したために、思考が貯まり始めます。
表層意識は深層意識(潜在意識)に、命令を出します。
「治ると決めた!」
これは、カーナビに目的地を入力したようなものです。
深層意識(潜在意識)は、それに向けて、情報を集め、ルートを自動検索してくれます。
あとは、目の前の、そのルートをひたすら走り続けるだけ。
立ち止まれば、その場から進めませんし、もしも、Uターンなんてしたら、元の場所に戻ってしまいますから要注意。
さらに、私には、「子ども心」が喜びそうな、メリットというエサもありました。
「体験レッスンに参加したい!」
これは、強力なエサです。
そのために深層意識(潜在意識)を総動員して、目的地により早く辿り着こうと頑張ります。
そして、ゴール!!
目的地に到着しました。
病気になると、病気のことや、付随するネガティブなことにしか、目が向かなくなり、思考もそうなりがちですが、あえて、未来に目を向けることをオススメします。
もしも、病気ではなく、健康体で、何でも出来るとしたら、何をしたいのか、未来を自由に思い描き、妄想でもなんでも、その思考をどんどん増やしていきます。
出来ることがあれば、それをやり始めます。
もう、病気なんてやってられない、そう、思えるように。
やっぱり、人は、メリットが大好きです。
以上、私の難病の記録でした。
病名は、あえて伏せています。
誰かの何かのご参考になれば、幸いです。
が、この記事による、いかなる損害も、私は責任を負いかねます。
私のように、いきなり薬を止めるとか、無茶をしないでくださいね。
医師を信じる思考も大切ですし、例え、同じ病名であっても、根本原因は、ひとそれぞれ。異なる場合も同じ場合もあります。